2026年3月2日月曜日

未来を悲観するクセはいつから始まったのか

いつからだろう。
未来の話をするとき、
無意識に「でも」と付け加えるようになったのは。

景気はもう戻らないかもしれない。
人口は減る一方かもしれない。
この国はゆっくり縮んでいくのかもしれない。

気づけば、未来は希望よりも
前提としての“不安”から語られるようになった。

高度経済成長の時代、
未来は拡大するものだった。
昨日より今日、今日より明日。
右肩上がりという言葉が、疑いなく信じられていた。

けれどバブル崩壊のあと、
長い停滞を経験し、
「失われた30年」という言葉が定着した。

あの頃からだろうか。
未来を楽観することが、どこか無責任に感じられるようになったのは。

悲観は賢く見える。
慎重さは大人に見える。
期待しなければ、傷つかずに済む。

そうやって少しずつ、
未来を疑うクセが身についていったのかもしれない。

もちろん、現実は簡単ではない。
少子高齢化も、財政問題も、地域格差も、
どれも無視できない現実だ。

けれど、現実を見ることと、
未来を閉ざすことは違う。

悲観は、ある意味で安心だ。
「やっぱりね」と言える余地を残してくれる。

でも、悲観が習慣になると、
挑戦する前から諦める社会になる。

未来は予言ではなく、選択の積み重ねだ。
悲観を前提に選ぶのか、
可能性を前提に選ぶのか。

その違いは小さく見えて、
十年後には大きな差になる。

未来を悲観するクセはいつから始まったのか。
そして、それは本当に変えられないものなのか。

もしクセなら、
少しずつでも矯正できるはずだ。

明日は意外と悪くないかもしれない。
そんな仮説を、
もう一度、口にしてみるところから始めたい。

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