いつからだろう。
テレビのニュースを眺めながら、ふと、そんな言葉が胸に浮かぶようになったのは。
子どものころに思い描いていた「日本」は、もっと静かで、もっと誇らしくて、もっと安心できる場所だった気がする。
電車は時間通りに来て、コンビニは明るくて、道にはゴミが落ちていない。
それだけで十分、すごい国だと思っていた。
けれど今、画面の向こうに流れる映像を見ていると、どこか輪郭がぼやけている。
言葉は強く、空気は尖り、余裕は少しずつ削られている。
便利になったはずなのに、なぜか息苦しい。
未来は、もっと明るいものだと信じていた。
テクノロジーが進めば、生活は楽になり、人は優しくなるのだと思っていた。
けれど現実は、速さだけが増して、心は置き去りにされているようにも見える。
「私の知っている日本」は、どこにいったのだろう。
それとも、変わったのは国ではなく、私のほうなのだろうか。
大人になるということは、理想のフィルターが剥がれていくことなのかもしれない。
ニュースの裏側を考え、数字の意味を疑い、言葉の温度を測るようになる。
知らなかったほうが楽だったことも、いくつもある。
それでも。
朝になれば、パンの匂いがして、近所の子どもたちの声が聞こえる。
コンビニの店員さんは今日も丁寧に「ありがとうございました」と言う。
小さな日常は、まだ壊れていない。
もしかすると、「私の知っている日本」は、大きな物語の中ではなく、
こういう何気ない風景の中に残っているのかもしれない。
未来は、誰かが用意してくれるものではなく、
一人ひとりの小さな選択で、少しずつ形を変えていく。
今の日本が、私の知っている日本ではないのなら、
これから出会う日本を、もう一度、自分の手で知っていけばいい。
変わってしまったと嘆くより、
変わっていく途中に立っているのだと思えたなら。
この国の未来は、まだ白紙だ。
そして私は、その余白の片隅に、そっと自分の言葉を書き足していく。
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